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死の世界的な象徴としてのヒトの頭蓋骨
死(し)とは、
命がなくなること[1]。生命がなくなること[2]。生命が存在しない状態[2]。
機能を果たせないこと、役に立てないこと、能力を行使できない状態[1]( → #比喩的な用法を参照)。
ただし、何をもって人の死とするのか、その判定や定義は文化、時代、分野などにより様々である(→「死亡の判定・定義」節を参照)。一旦は命が無いとされる状態になったが再び生きている状態に戻った場合、途中の「死」とされた状態を「仮死」や「仮死状態」「臨死状態」という。伝統的に宗教、哲学、神学が死を扱ってきた。近年では、死生学、法学、法医学、生物学等々も死に関係している。死の後ろに様々な言葉をつなげ、様々なニュアンスを表現している。例えば「死亡」「死去」「死没」などがある。死の文化的な位置付けについては「死と文化」を参照 どのような状態になったことを「死」とするのかという事については、各地域の文化的伝統、個人の心情、医療、法制度、倫理的観点などが相互に対立しており、複雑な様相を呈している。例えば、医学的な見解の一つに着目してみた場合でも、そこには様々な見解がありうる。養老孟司は次のように指摘した。生死の境目というのがどこかにきちんとあると思われているかもしれません。そして医者ならばそれがわかるはずだと思われているかも知れません。しかし、この定義は非常に難しいのです。というのも、「生きている」という状態の定義が出来ないと、この境目も定義できません。嘘のように思われるかも知れませんが、その定義は実はきちんと出来ていない[3]。 医療で用いられる「死の三兆候」で、次の三つから成る。 臓器移植の問題が出現するまで、こう考えておけば基本的には問題はなかった[4]。 現代の医療の現場では、基本的にまずバイタルサインを見て生命の状態を判断している。つまり心拍数・呼吸数・血圧・体温である。そしてバイタルサインによる生命活動が確認出来なくなり、且つ瞳孔反射を調べ、それも無い場合に死亡したと判断する方法である[注 1]。 死を厳格に定義するのは困難だが、医療の現場では前述の「死の三兆候」を用いる事で一応の解決を見ていた。ところが、臓器移植の登場により、事態が複雑化した[4]。 米国などで一部の医師によって臓器移植の試みがなされるようになると、こうした医師はできるだけ状態の良い臓器を使うため、少しでも早く臓器を摘出したいと考えるようになった。そのほうが移植された人の予後は良好になる傾向があるからである。だが、早期に臓器を摘出する手術をした事によって患者が死亡したと見做された場合、その一連の行為は(一種の)「殺人」になってしまう。そこで、臓器移植を行いたい医師たちなどが、意識の有無を生死の線引きに用いることを提唱し、「脳死」という概念が生まれた。それによって、脳が死んだ状態でも、残りの臓器は新鮮な状態を維持したまま臓器を移植することが可能になるとされた。脳死という概念では、「脳の電気的活性の停止が意識の終わりを示す」とした。つまり、脳の電気的活性が止んだ時、人は死亡したとされる。 脳死に対する見解は分かれている。そもそも「脳死」という概念自体、線引きは様々であり、(脳のどの部分が死んだ段階で「脳死」とするか意見は分かれ)、「脳の神経細胞が全部死んだ時点が脳死」とする人もいる[5]。しかし、仮にこの論法を取る場合でも、一体どの時点で神経細胞が全部死亡したと言えるかは明確ではない[5][注 2][注 3][注 4][注 5][注 6][注 7]。日本臓器移植ネットワークでは、脳死を「脳幹を含む、脳全体の機能が失われた状態」と定義しており、所謂植物状態とは明確に異なるとしている[6]。 脳死の議論は、科学の分野というよりは、社会が一致して決める「死」が問題の中心になっているようだと養老孟司は指摘した[7]。臓器移植を巡る「脳死」概念では、臓器移植をしようとする医師、臓器を摘出される人とその家族、臓器を受け取る人の立場等々により意見が異なる。
「死」の定義及び判定に関する諸問題
医療現場での死の判定方法
三兆候
自発呼吸の停止
心拍の停止
瞳孔の散大(反射 の消失)
バイタルサイン
脳死と臓器移植
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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